少し前の更新から間が空いてしまった。公演で忙しかったこともあるけれど、「あること」がきちんと決まるまでは書き進めたくないと思っていた。
「あること。」
それは、これから訪ねる「ほっとはうす」が「hg」のもうひとつの舞台になるという構想を持ったことだ。もちろん秋風に吹かれて水俣市内へと走るそのときのわたしはそのことを知るすべもない。けれどわたしと「ほっとはうす」のファーストコンタクトの瞬間にそれは決まっていたとは言える。なのでここから先を書き進めることは、わたしの戯曲の構想とその理由に深く触れる話となるだろうと考えた。そしてそこを舞台にするからには、そこに働く方たちの許可が必要だ。彼らが知るより先に、許可を得るのより先に、ブログでそのことを書き散らすのはやりたくないな、とわたしは考えた。そこで、この記録をひとたび休み、構想を整え、企画書を作り、手紙を書き、許可を得た。俳優を新たにオファーし、戯曲もかなり大胆な構成にシフトチェンジした。
すべてが整ったので、わたしはまたこのつたないノートを進めていこうと思う。
「ほっとはうす」は水俣の中心部の飲食店街にひっそりと立っていた。水俣自体がとても小さな町なので、飲食店街とは言えささやかなものではある。しかしスナックやパブも軒を連ねるその路地に、胎児性水俣病患者の作業所があるというのは、イメージとかけ離れており、何度か気づかず前を往復してしまった。

喫茶コーナーでコーヒーをいただいた。東京では見なかった書籍があったので、パラパラと拝見しつつ、コーヒーを飲む。永本さんはいらっしゃらないとのこと。東京から来ました、資料館で永本さんのお話を聞いて訪ねてきました、とは言えるけど、演劇書くために来ました、とはなかなか言えない。喫茶コーナーは少し薄暗く、せっかくだからもう少し居心地のいいスペースになればいいのにな、などとぼんやり考えていたら、場のエネルギー増し、パアッと明るくなったようなカンジがして、振り向いたらひとりの女のひとが立っていた。
「加藤です」
とその方は名乗り、あたふたしているわたしに名刺をくれた。そして机にさあっと新聞のコピーを出し、
「わたしたちのあたらしい宿泊できる作業所がもうすぐできるんです」
と言った。「今日はどうしてこちらに?」と聞かれたのはそのあとのことである。
彼女にとっては、わたしの来訪理由より、宿泊できる新しい作業所のことをつたえることのほうがずっと重要なのだ。
その女性の名前は加藤たけ子さん。支援者として水俣に入り、今は亡きパートナーと共に胎児性水俣病患者の作業所を立ち上げた。水俣病のためにもっとも戦った支援者のひとりである。
胎児性水俣病患者というのは、直接水銀を摂取したわけではないが、母親の胎内で骨盤を通じて水銀に犯され水俣病となった方たちだ。母体はすべての栄養を赤ちゃんに与えようとするため、結果として、高い濃度の毒性物質をも赤ん坊に与えてしまうこととなる。チェルノブイリでは卵巣の放射物質の濃度は自然界に存在するものの数千倍を記録したと聞いている。水俣は胎児性の存在によって100年の病となることを強いられた。そのことを思うとき、いいようのない痛みをわたしは感じる。
しかしまずは、いま目の前にいるひとの放射するようなエネルギーに創作者としての心が大きく震えるのを感じていた。クレバーでありながら、胎児性の子達を守るためにはなんの理屈も通らなさそうな厄介な熱情が感じられた。うつくしいと思った。彼女はひとしきり言いたいことだけを言うと、「これから市役所に行かなくてはならないので」と、現われたときと同じように勝手なほどさあっといなくなってしまった。
ポツンと残されたわたしは、ほっとはうすのテーブルに座って手紙を書いた。東京から水俣病のことを書こうと思ってやってきた劇作家であること。そのきっかけは子供のころ読んだ石牟礼さんの「苦海浄土」であったこと。できたらお話を聞かせてほしいこと。
手紙を渡して、今度は丸島漁港へと向かった。海のそばにいたかった。海を見て、そこにある暮らしを感じていたかった。丸島漁港のちいさな魚市場のとなりに、ちっちゃな食堂がある。そこのチャンポンは有名なのだという。その海の家みたいな食堂に腰掛けて日暮れていく港を見ながらチャンポンを食べ始めたときに、チリリと携帯がなった。加藤さんだった。夢中で話して、では明日、午後に「ほっとはうす」でお昼を食べながら、と約束をした。
「ランチは700円です。」
と慌しく言って電話は切れた。hgの時間が、そのとき、グイッと前へと進み始めた。ぼそぼそとチャンポンをすするわたしは、まだそのことを知らない。素朴な味のチャンポンはとてもおいしかった。