ANA国内線【PR】

風琴工房新作「hg」に向けての詩森ろばの取材記録です。
by hg-project
XML | ATOM

skin by excite
水俣ノート№7
水俣最終日。水俣病公式発見の地、坪段のあたりを山のほうに登ったところに相思社があります。そこに併設された水俣病歴史公証館を見に行きました。相思社は支援者の方々によって立ち上げられ、チッソとの交渉、行政との闘いなどを支えてきましたが、1995年の一応の政治決着以降はゆるやかに生活支援、水俣病の周知活動などにシフトしてきた民間の団体です。データベースの管理、患者の方々が作る無農薬野菜の販売、修学旅行・学習旅行のコーディネートなどその活動は多岐に渡っています。

水俣病のことを調べていくと、心痛むできごとがもちろんたくさんあります。そのなかでも色濃く情豊かだったコミュニティの崩壊に関する記録は辛く重い気持ちになってしまうことを止められません。しかし、差別する側も差別される側も共に生きるということに必死だったのだ、と思うとき、善悪のものさしだけでこれを計ることはできないとも思います。

そんななか、わたしが小さな(そして無責任な)憤りを感じてしまったのは、89年の和解に関わる患者さんたちの記憶でした。71年から89年までは、チッソ水俣工場前で断続的な座り込みが行われていました。そこには全国からたくさんの支援者の方々も訪れ、なかには水俣に居を構えて活動を行う方も少なくありませんでした。患者さんたちはその方たちに支えられ、感謝しつつ、長い戦いを行ったのだといいます。しかし、先の見えない戦いや、生きているうちに少しでも報われたいという思いから、十分とはいえない和解を受け入れたとき、患者さんたちは思いもよらぬ言葉を支援者の人たちから聞くことになりました。すなわち「妥協である。」「君たちは運動をなんと心得ているのか」。昨日までは暖かく仲間と信じた人たちからのこの言葉に患者さんたちは深く傷ついたそうです。このことを思うとき、ひとの想像力とはなんと貧弱なものかと思いますし、思想や正義は時にどこまでも残酷になりうると思います。

そして多くの支援者が去っていくなかで、あたらしい支援の形を模索し、形にされていったのが、相思社の方々であり、ほっとはうすの加藤さんです。

歴史公証館には猫実験の小屋なども保存(レプリカかと思ったら本物だとのこと)されており、小規模ながら丁寧で見ごたえのある展示がされていました。特にチッソの企業内実験を書こうと思っているわたしには貴重な資料がたくさんありました。



資料館を見終わったあと、受付の女性と話すことができ、思い切って企画書を渡したところ、とても興味を持ってくださり、ビデオなどをいろいろ薦めてくださいました。2時間ほど見させていただきましたが、時間切れ。もっと時間をたくさんとってくればよかった、と思いました。資料本も充実しており、あたらしい資料もいくつか購入。

ほっとはうすに最後にもう一回寄りました。作業をなにかお手伝いしようかと思ったのですが、「つたえるプログラム」の狭間のお茶の時間でした。申し訳なくて居心地悪くしていると昨日ラベンダーをいっしょに切った通所者の方が、名刺をくださいました。水俣の花が押された押し花のきれいな名刺です。それをきっかけにポツポツと話すことができました。

時間はやってきて、またおれんじ鉄道に乗って名残惜しく水俣をあとにしました。来るときには思いもよらなかった再訪を心に決めて。帰るその瞬間から戻りたくなる場所。そんな場所をわたしはひとつ得たのだと思いました。

この場所を物語にする。水俣への短い旅が終わり、「hg」への長い旅が始まりました。



水俣病公式発見の地。坪段。
# by hg-project | 2008-04-13 10:31
水俣ノート№6
鹿児島との県境に、乙女塚という小さな塚がある。そこは患者さんでもある田上義春さんが開いた農園に、俳優の砂田明さんが移り住み、建立したものだと聞いている。胎児性患者で21歳で逝去された上村智子さんを悼み、水俣病で亡くなった生類すべての鎮魂としてお建てになったそうだ。

上村智子さんはユージン・スミスの入浴する母と子の写真の被写体となった方だ。そのほか、成人式で晴れ着を着てお父さんに抱きしめられ喜びを交歓する塩田武史さんや桑原史成さんの写真で彼女を記憶する方も多いだろう。水俣病の悲惨さを深く伝えると同時に、生というものの、そして家族というものの、そこに愛情があるということが、これほどに豊かで美しいものかということを伝える写真である。

水俣ではおそらく、家族や共同体が崩壊するというようなことが多々あったろうと想像される。患者さんたちの聞き書きから浮かび上がる差別は、たいへん過酷で凄惨だ。水俣病が原因で離縁された方も多いと聞く。それだけに、この写真に写された、豊かな情交は幾重にも幾重にも愛しくたいせつなものだ。

水俣という場所は、人生というものが、世界というものが、人に与えうる最大の悲劇と最大の美の両方に満ちている。水俣病を得た無名の市民の、少なくないひとたちが、深い深い哲学とも言える思想に辿り着いていく。その言葉には、たたただ、深く頭を垂れ、聴き入るしかしかない。人生の幸福とはなにか、ということを考えたとき、さまざまなことをこのことは教えてくれる。

そんなひとりが、この乙女塚農園を建立された田上さんであり、そして砂田明さんだ。砂田さんは患者さんではなく、東京から移り住んだ新劇の俳優さんである。砂田さんのひとり芝居、「天の魚」をビデオで見たのだが、それは、わたしの知る限り、ほんとうにうつくしい演劇表現、最良のもののひとつであると感じるものだった。魂というものは、などと安易に口にしたくはないが、やはり表現というものを、ひとつうえの段階へと押し上げていくものは、魂の問題だとしか言えないものであった。自分は当事者ではない、という恥じらいが、砂田さんの表現の根幹を成していると感じた。そういうひとだからこそ、こんなにも深く、患者さんの苦しみに寄り添うことが可能だったのではないかと思う。余談であるが、今回、わたしの芝居に出てくれる篠塚さんは砂田さんと同じ舞台を踏んだことがあるということだ。ご縁はつながっていくな、と感じる。

この乙女塚のたもとに、いまも砂田さんの奥様エミ子さんが暮らされている。その家のとなりに、「みんなの家」というちいさな民家がある。そこには、いつも鍵はかかっておらず、小さな舞台(そこではかつて何度も「天の魚」が上演されたそうである)があり、宿泊などもさせていただける場所となっている。その「みんなの家」をガラガラと開け、シンとした室内に入っていったとき、わたしにも戻る場所がある、ここにはいつでも戻ってきていいのだ、と不意に感じた。それほどにそこは、他者を否定しない場所であった。生きとし生けるものすべてのみんなの家。思想というものは、表現だけではなく、場所にも宿る。こんなにも濃密に。

自分の表現というものを粗末にしてはならない。

そう思った。卑しい心は卑しい表現しか生み出さないだろう。しかし、自分の卑しさから目を背けた表現であってもならない。そのように刻み乙女塚をあとにした。

# by hg-project | 2008-03-23 21:03
水俣ノート№5
自転車で、乙女塚を目指しながら、水俣病の激震地となった海辺の町々を訪ねた。町、というより、小さな集落がリアス式海岸の狭い入り江のひとつひとつに宿っている。水俣に行くのなら、資料館よりもどこよりも、この町々を訪ねるといいと思う。べつになにがあるという場所ではない。しかしそこにただあてどもなく佇んでいると、にあるごくあたりまえの生活が、ある日とつぜん喪われたのだという実感が、わきあがってくる。

年に一度か二度、台風でもやって来ぬかぎり、波立つこともない小さな入り江を囲んで湯堂部落がある。

というのは苦海浄土の有名な書き出しだが、湯堂の海はほんとうにとろりとした、秋だというのにひねもすのたりのたりといった風情の海なのだ。水俣のゴミ分別は有名だ。22分別。細かく細かく分別されたゴミは、水俣ブランドといってリサイクル業者に高く売れるのだという。それだけでも、素晴らしいことだとは思うのだが、ここでわたしが行き会ったのは、ちょうど週に一度の夕方のゴミ分別の風景であった。














それは文字通りの老若男女なのだけれど、小さな集落のあちらこちらから人が集まってきて、ゴミをに朗らかに分類しているのである。「誰々さんが来てないねえ。」「心配だから帰りに寄ってみようかい」という会話が耳に飛び込んでくる。

わたしが行っている会社では、共同の作業をおろそかにしようものなら、聞こえるところであからさまな悪口が飛び交い、毎日磨り潰されるように日々を送っている。水俣にしても、もちろん中にもっと深く入り込んでいけば、濃密な分、いろいろ煩雑な人間関係もあるには違いない。けれど、それにしても。ゴミの収集が、環境というものを飛び越えて、コミュニケーションの可能性として機能することがあることに、深く感じ入った。

この風景を見たときに、わたしのなかで覚悟がひとつ決まった。いま決まっている構想に拘らず、現在の水俣を伝えるものを書かなければならないと。この美しい情景。ここはただの悲劇の町ではない。それを礎として、わたしたちが学ぶべき新しいなにかに向かって手を伸ばしている場所なのだ。それを伝えずして、いったいなにを書こうというのか。

どう書くのかはまだひとつもわからない。でもそのことを決めた瞬間のことはきっと一生忘れないだろうと思う。














あまりにも美しい袋の海。水俣病とは言うが、発生当初、水俣全体の問題ではなく、袋地区の問題だと言われたこともあるという。
# by hg-project | 2008-03-20 00:02
水俣ノート№4
次の日、午前中はいろいろ自転車で市内のエコタウンやチッソの社宅、そのほか水俣病に関わるいろいろな場所を訪ね、約束の時間になったため「ほっとはうす」を訪れた。あとでもっとハッキリ知るのだけれど、加藤さんの毎日はたいへんに忙しい。わたしが訪ねたときもアポイントを取ってはあったが、加藤さんはテンテコマイの状況であった。加藤さんは「仕事が終わらないので待っていて下さい」と言った。そしてここが「ほっとはうす」のすごいところだと思うのだけれど、「うえにあがって仕事しながら待ってますか?」と聞かれたのだ。うえ、と言っても、2階という意味ではなくて、階段を3段くらいあがったところにある事務所である。ちなみに階段はなくて車椅子の昇降機が取り付けられている。ふつうの店舗物件なので残念ながらバリアフリーではないのだ。そこを工夫してなんとかかんとか使用されている。

「うえにあがって仕事して待つ」というイメージがちっともわかないまま、うえにあがらせていただく。そこでは、通所者のみなさんがラベンダーのポプリつくりのまっさいちゅうであった。ポンッとハサミ。そしてラベンダー。「このくらいのサイズに切ってください。」と言われ、切りはじめる。最初はひたすらアワを食っていたのだが、少したって落ち着くと、資料で触れていた胎児性の患者さんたちが何人もいらっしゃることに気づいた。そういう場所なのだからあたりまえなのだけれど、わたしにとってはちょっとした有名人にあった(ミーハーでごめんなさい)気分。ドキドキしつつ、共にハサミを動かす。

知的障碍の子供たちに関わるボランティアを長くやっていたのだけれど、なにせ相手は子供たちなので、作業するといってはあばれ、散歩に行くといっては走り、というかんじだった。ここにはもっと大人のおだやかな時間が流れている。よく老人施設などで、スタッフの利用者に対しての子供扱いが問題になる。ここでは知的な遅れのある方にもきちんと大人として向き合う態度が徹底されているのだな、と感じた。

ひとりひとりと知り合いになり、情感もある交流を持ったいまとなっては胎児性水俣病患者、と彼らをひとくくりに表現することに前にもましての抵抗を感じるが、少し説明を加えたい。胎児性の場合、水銀中毒の症状が純度濃く現われることが多いため、生まれながらにして重度の身体障碍・知的な障碍を持っていることが多い。また進行性ではないが、年とともに、身体機能など少しずつ損なわれていくことがままある。じっさいほっとはうすにおられる方の幾人かは昔は歩くことができたそうである。

作業をひとしきり終え、ほっとはうすのランチをいただきながら加藤さんとお話をした。とりとめもなく大きなくくりの話をしたように思う。わたしもまだ「ほっとはうす」を書こう、などとは思っていないワケなので、照準を合わせた取材ではない。劇作家の興味としては、加藤さん個人のおはなしをもっと聞きたかったが、それよりも胎児性患者さんが指し示すものについて、わたしを導こうとするお話が多かったように思う。

これから自転車でいろんな部落を回ろうと思うんです、と言うと、見るべき場所について地図をみながら説明したり印をつけてくれたりした。思った以上に遠くまで行くこととなり、ママチャリでだいじょうぶだろうか、とふと不安になったが、加藤さんが行けというからにはともかく鹿児島との県境にある乙女塚までは行かなくてならない、と思った。地図に印を書き込むとき、加藤さんはもうここまで行くものだと決めているのだ。裏切れない。そして不躾な訪問者であるわたしに、こんなに丁寧に対峙してくださるなんて、しかもそれは常に徹底されていることなのだろうと感じられ、それは確かに時間もとられお忙しいわけだと思った。















お礼を言い、ほっとはうすを辞去する。そして、また自転車を発信させた。写真は10月だというのにまだあちことに咲いていた彼岸花。水俣は花の町でもある。ほっとはうすの押し花はすべて、水俣の野山でつんだ野花で作られている。
# by hg-project | 2008-02-26 01:08 | 取材記録
水俣ノート №3
少し前の更新から間が空いてしまった。公演で忙しかったこともあるけれど、「あること」がきちんと決まるまでは書き進めたくないと思っていた。

「あること。」

それは、これから訪ねる「ほっとはうす」が「hg」のもうひとつの舞台になるという構想を持ったことだ。もちろん秋風に吹かれて水俣市内へと走るそのときのわたしはそのことを知るすべもない。けれどわたしと「ほっとはうす」のファーストコンタクトの瞬間にそれは決まっていたとは言える。なのでここから先を書き進めることは、わたしの戯曲の構想とその理由に深く触れる話となるだろうと考えた。そしてそこを舞台にするからには、そこに働く方たちの許可が必要だ。彼らが知るより先に、許可を得るのより先に、ブログでそのことを書き散らすのはやりたくないな、とわたしは考えた。そこで、この記録をひとたび休み、構想を整え、企画書を作り、手紙を書き、許可を得た。俳優を新たにオファーし、戯曲もかなり大胆な構成にシフトチェンジした。

すべてが整ったので、わたしはまたこのつたないノートを進めていこうと思う。

「ほっとはうす」は水俣の中心部の飲食店街にひっそりと立っていた。水俣自体がとても小さな町なので、飲食店街とは言えささやかなものではある。しかしスナックやパブも軒を連ねるその路地に、胎児性水俣病患者の作業所があるというのは、イメージとかけ離れており、何度か気づかず前を往復してしまった。



喫茶コーナーでコーヒーをいただいた。東京では見なかった書籍があったので、パラパラと拝見しつつ、コーヒーを飲む。永本さんはいらっしゃらないとのこと。東京から来ました、資料館で永本さんのお話を聞いて訪ねてきました、とは言えるけど、演劇書くために来ました、とはなかなか言えない。喫茶コーナーは少し薄暗く、せっかくだからもう少し居心地のいいスペースになればいいのにな、などとぼんやり考えていたら、場のエネルギー増し、パアッと明るくなったようなカンジがして、振り向いたらひとりの女のひとが立っていた。

「加藤です」

とその方は名乗り、あたふたしているわたしに名刺をくれた。そして机にさあっと新聞のコピーを出し、

「わたしたちのあたらしい宿泊できる作業所がもうすぐできるんです」

と言った。「今日はどうしてこちらに?」と聞かれたのはそのあとのことである。
彼女にとっては、わたしの来訪理由より、宿泊できる新しい作業所のことをつたえることのほうがずっと重要なのだ。

その女性の名前は加藤たけ子さん。支援者として水俣に入り、今は亡きパートナーと共に胎児性水俣病患者の作業所を立ち上げた。水俣病のためにもっとも戦った支援者のひとりである。

胎児性水俣病患者というのは、直接水銀を摂取したわけではないが、母親の胎内で骨盤を通じて水銀に犯され水俣病となった方たちだ。母体はすべての栄養を赤ちゃんに与えようとするため、結果として、高い濃度の毒性物質をも赤ん坊に与えてしまうこととなる。チェルノブイリでは卵巣の放射物質の濃度は自然界に存在するものの数千倍を記録したと聞いている。水俣は胎児性の存在によって100年の病となることを強いられた。そのことを思うとき、いいようのない痛みをわたしは感じる。

しかしまずは、いま目の前にいるひとの放射するようなエネルギーに創作者としての心が大きく震えるのを感じていた。クレバーでありながら、胎児性の子達を守るためにはなんの理屈も通らなさそうな厄介な熱情が感じられた。うつくしいと思った。彼女はひとしきり言いたいことだけを言うと、「これから市役所に行かなくてはならないので」と、現われたときと同じように勝手なほどさあっといなくなってしまった。

ポツンと残されたわたしは、ほっとはうすのテーブルに座って手紙を書いた。東京から水俣病のことを書こうと思ってやってきた劇作家であること。そのきっかけは子供のころ読んだ石牟礼さんの「苦海浄土」であったこと。できたらお話を聞かせてほしいこと。

手紙を渡して、今度は丸島漁港へと向かった。海のそばにいたかった。海を見て、そこにある暮らしを感じていたかった。丸島漁港のちいさな魚市場のとなりに、ちっちゃな食堂がある。そこのチャンポンは有名なのだという。その海の家みたいな食堂に腰掛けて日暮れていく港を見ながらチャンポンを食べ始めたときに、チリリと携帯がなった。加藤さんだった。夢中で話して、では明日、午後に「ほっとはうす」でお昼を食べながら、と約束をした。

「ランチは700円です。」

と慌しく言って電話は切れた。hgの時間が、そのとき、グイッと前へと進み始めた。ぼそぼそとチャンポンをすするわたしは、まだそのことを知らない。素朴な味のチャンポンはとてもおいしかった。
# by hg-project | 2008-01-30 23:57 | 取材記録
< 前のページ 次のページ >